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『職業に貴賎なし』と言う。

即ち、どのような仕事も社会に必要とされているものであり、働くことは等しく貴いことで、

人を仕事の内容によって差別すべきではないと言う意味である。

ではAV女優は差別されていないのか? 言われなき差別を受けていないのか?

世の中に必要のない職業はなく、AV女優もその例には漏れないものの
歴とした差別が存在しているのはではないか?

『職業に貴賎なし』と言うのは綺麗事で、実際は『職業に貴賎あり』ではないのか?



今年、オードリー・ヘップバーンは生誕90年を迎える事で各メディアは例年にも増して

特集を組んでいる。彼女は引退どころか死しても尚、ファンの目を楽しませてくれる。

決して、引退しただとか、没したからと言って、彼女の作品が取り扱い停止になること

などない。それどころか毎年の様に女性誌の表紙を飾り、

テレビ、ネットを問わず、必ずどこかで「ローマの休日」は放送及び配信されている。


これに対してAV女優は引退後に出演した商品が取り扱い停止になるみたいである。


俳優や歌手が不祥事を起こして、映画の公開やドラマの放映が中止になったり、

音楽CDが販売されなくなったり、配信が中止になったりした時、

多くの人が『作品に罪はない』と憤慨しなかったか。


であるならば、AV女優が出演した作品は罪なのか、ひいては彼女達自身が罪人なのか。

否、否である。これは何を意味するのか。


「AV強要事件」を例に出さずとも、世間一般から蔑視されているAV業界の中でも

殊更にAV女優は差別されている証左ではないのか。

THE BLUE HEARTS の歌詞を借りると「弱い者達が夕暮れ更に弱いものを叩く」

と言うことではないのか。


業界にとって女優は大切な商品である反面、彼女達は使い捨ての消耗品であると

思われているのではないか。

それ故に、AVは「アダルトビデオ」ではなく、「エロビデオ」と言う認識、

「作品」ではなく、「商品」と言う認識であるが故に、

簡単に取り扱い停止などと言う短絡的差別行動を思考するのではないか。

であれば、業界のヒエラルキーの中で最下層と言う差別をされている事に

なるのではないか。


銀幕の女優さんとAVの女優さん達は、どこが違うね。

確かに、演技と性との差異はあろうが、どちらも表現者ではないのかね?


では、世間一般から見るAV女優はどうなのであろうか。


「金で股を開くオンナ」だの、「肉便器」だの、「性欲処理の道具」だの、

「人生を棒にふってる」だの、「親が可哀想」だのと誹謗中傷する野郎はいるが、

それは例えばSNSなどで相手にされなかっただの、冷たくあしらわれただのと

勘違いした挙句に、極論を言えば、アンチ堕ちした信者達の逆恨みから発した言動であろう。


しかしながら、多くの男たちは彼女達は差別しない。何故か。

それは男性と言うのは、多かれ少なかれ、そして今現在、もしくは過去に

必ず彼女達のお世話になっている、もしくはなっていたからである。

彼女達は青春そのものであるからである。

もし、彼女達は貶める発言をしたならば、それは億倍、京倍のブーメランとなって

自らの身に帰って来る事となり、そして、自らの青春を否定することにもなる。

そんなバカな事をするものは常識的に考えているわけはなかろう。


であれば、同性である女性はどうなのであろうか。

昨今ではAV女優に憧れて自らもAV女優になる女性がいるなどとまことしやかに

述べられているが、そんな人は極一部であろう。

AV女優を商品としか見ていない業界が小さなことを膨らまして誇張しているに過ぎない。



例えばである、ジャニタレとAV女優が付き合えばどうなるね。

何の確証もないカストリ雑誌のスクープ記事程度のうわさであったとしても

ジャニヲタたる女性たちは、AV女優を許しはしない。

男性の糞ガキレベルの悪口とは比較にならない程に、

ヘイトスピーチや誹謗中傷と言うレベルを超越し、

一挙手一投足すら気に喰わないレベルで恨み尽くし、

それもおぞましい程の言葉を列挙して存在そのものを全否定する。

言葉で存在を亡きものにしようとしているかの如くである。

相手の女性がAV女優と言う職業と言うだけで、狂気に支配されたかの様に

絶対に生かしてはおけんと言わんばかりに微塵の躊躇も無く心の底から恨みつらむ。

そして、言葉の暴力としてSNSなどに直接的な攻撃をしでかす。



『職業に貴賎はある』。それはあるんだ。

人が人である以上、肌の色、貧富、容姿、出自、心情、宗教、性別、人種、文化、

病気、年齢、思想、ありとあらゆるところに差別は存在する。

それはそういうものだと受け入れるか?

それが嫌なら戦わねばならぬ。

満身の力をこめて今まさに振り下ろさんとする握り拳の様に

差別を彼方へと追いやり 眠りこけている連中を叩き起こそう

髪の毛をつかんで引きずり降ろし、眼をこじ開けさせて思い出させよう

連中に人類の叡智を思いしらせよう。

天と地のはざまに、奴らの哲学では思いもよらない事があることを思いしらせよう。

鉄火を以って闘争を始めて、血みどろの闘争の果てに世間を燃やし尽くそう。



闘争の果てに、ニガー(奴隷の末裔)と蔑称されたアフリカ系アメリカ人は

米合衆国において法の下の平等を得て、黒人の大統領を輩出するまでになった。


南アメリカ共和国では、アパルトヘイトと呼ばれた人種隔離政策が撤廃され、

ネルソン・マンデラが黒人として大統領となった。


それでも今だに、アメリカでは黒人の差別が横行し、南アでは貧富の差は解消されていない。

数ある不自由と戦わずして 自由は手に出来ない。

だからこそ、未来に向かって戦い続ければならない。


1963年8月28日、自由を求めた5万人近い人々が集結した「ワシントン大行進」。

そこですべての社会階層の人々が、公民権と、皮膚の色や出身などに関係なくあらゆる

市民を対象とした平等な保護を求めた。

この日、「私には夢がある」(I Have a Dream)から始まる演説を行ったのが、

かのマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師である。



彼の演説の一説を記す。


絶望の谷間でもがくことをやめよう。友よ、今日私は皆さんに言っておきたい。われわれは今日も明日も困難に直面するが、それでも私には夢がある。それは、アメリカの夢に深く根ざした夢である。

私には夢がある。それは、いつの日か、この国が立ち上がり、「すべての人間は平等に作られているということは、自明の真実であると考える」というこの国の信条を、真の意味で実現させるという夢である。

私には夢がある。それは、いつの日か、ジョージア州の赤土の丘で、かつての奴隷の息子たちとかつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルにつくという夢である。

私には夢がある。それは、いつの日か、不正と抑圧の炎熱で焼けつかんばかりのミシシッピ州でさえ、自由と正義のオアシスに変身するという夢である。

私には夢がある。それは、いつの日か、私の4人の幼い子どもたちが、肌の色によってではなく、人格そのものによって評価される国に住むという夢である。

今日、私には夢がある。

私には夢がある。それは、邪悪な人種差別主義者たちのいる、州権優位や連邦法実施拒否を主張する州知事のいるアラバマ州でさえも、いつの日か、そのアラバマでさえ、黒人の少年少女が白人の少年少女と兄弟姉妹として手をつなげるようになるという夢である。

今日、私には夢がある。

私には夢がある。それは、いつの日か、あらゆる谷が高められ、あらゆる丘と山は低められ、でこぼこした所は平らにならされ、曲がった道がまっすぐにされ、そして神の栄光が啓示され、生きとし生けるものがその栄光を共に見ることになるという夢である。

これがわれわれの希望である。この信念を抱いて、私は南部へ戻って行く。

この信念があれば、われわれは、絶望の山から希望の石を切り出すことができるだろう。

この信念があれば、われわれは、この国の騒然たる不協和音を、兄弟愛の美しい交響曲に変えることができるだろう。

この信念があれば、われわれ は、いつの日か自由になると信じて、共に働き、共に祈り、共に闘い、共に牢獄に入り、共に自由のために立ち上がることができるだろう。

まさにその日にこそ、すべての神の子たちが、新しい意味を込めて、こう歌うことができるだろう。

「わが国、それはそなたのもの。うるわしき自由の地 よ。そなたのために、私は歌う。わが父祖たちの逝きし大地よ。巡礼者の誇れる大地よ。あらゆる山々から、自由の鐘を鳴り響かせよう。」


注)本文はカール・レーフラー著「存在しない神学者」から盗用したものを

一部加筆したものです。